2007年6月12日 (火)

ダースベイダー現る!?

Photo 鞍馬山はわたしの大好きな場所のひとつだ。              『婦女子は一人で歩かないこと』なんて不粋な立て看板を尻目に、ひとり静かに自己対峙しながら歩くのにおあつらえ向きの山なのだ。限りなく人の手を入れていないので、味のある倒木がそこここにあって、その佇まいにいちいち心を奪われてしまう。

鞍馬山はいわゆる有名な聖地のひとつだが、多くの欧米人たちをも惹きつけるのはそのスケールのデカさのせいだろうか。                             

何故って、650万年前に金星から地球を救うためにやってきた『サナートクマラ』という宇宙神を祭っている(多分隕石のことだと思う。)鞍馬寺は、フツーの仏教を軽々と飛び出して、スペースオペラよろしく、宇宙戦艦ヤマトもスターウォーズも吃驚の壮大なSFロマンを繰り広げているのだ。
・・・鞍馬天狗は金星人だったりして。。

鞍馬の火祭りは有名なのだが、実は五月満月祭(ウエサク祭)という、知る人ぞ知る秘めやか&マニアックな祭りがある。夜を徹して行なわれるもので、二年ほど前に一度参加したことがある。
ちょっと他では味わえない不思議でスペーシーな祭りである。

叡山電車の鞍馬駅で降りて貴船に抜けるのが正当なルートだが、今回は貴船から鞍馬へ行くことになった。こちらからのルートは勾配が急でキツい。(山越えし終える頃、すわっ!地震かっ!?と思ったら、自分の膝が笑ってただけだった。)

鞍馬寺の奥の院(まさに山の奥にある)は聖地中の聖地なのだろう。その周辺は、ン億年前海の底だったそうで地盤自体も特殊らしい。地球のエネルギーが満ちている場所なのだと思う。(ちなみにお寺の正面にある不思議な△と○のシンボルはその奥の院のエネルギーをダウンロード?しているらしい。)

さて、その奥の院をお参りして外へ出ると、どこからともなく黒い蝶がわたし目がけて飛んできた。虫がカラキシ駄目なわたしは、思わずパニくってしまったが、落ち着いて後から考えると何やら意味深な気がしてきた。

調べてみれば古今東西、蝶は色々なことを象徴してきた。地を這うイモムシ⇒サナギ⇒蝶へと生まれ変わるところから変容、死、再生といったことを暗示する。また黒も死を連想することから、黒い蝶が意味するのは死と再生、大きな変容といったことかもな、などと適当に解釈してみる。   

金星人か宇宙神か、天狗さまかはたまたダースベイダーかは分からないが、        古い自己は死につつあり、新しい自己を目覚めさせよ・・・と言われたってことにした。新陳代謝ってことよね、つまり。・・・都合のよい解釈かもしれないけど。

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2007年6月10日 (日)

新陳代謝しつづけること

ここ10ヵ月足らずのうちに、なんと3回目のお伊勢詣りである。

弾みがついたからなのか、はたまた神さまから呼び出しをくらってるからなのかは分からないが、いずれにせよ、その前は伊勢が日本海側にあると思ってたのだから、たいそうな成長ぶりである。(余談だが、今日、実家のトイレの日本地図をみていたら、またしても島根県が意外な位置にあるのを発見してひとり苦笑してしまった。) 

伊勢の遷宮がもうすぐだ。もうすぐといっても6年後。
20年に一度、神宮はすっかり生まれ変わる。正宮や各別宮はもちろん宇治橋までがまったく新しく、且つそっくりそのままに生まれ変わるのだ。新陳代謝しながら、人間の世代を超えた長い年月を生き続けている。

Imgp1182
今回は62回目の遷宮。単純に計算しても62×20=1240年。
実際は、途中遷宮できなかった時代もあったらしいけど。

石の文化である欧米人には、なかなかそのすばらしさが理解できなかったそうだ。建て替えちゃったら古くないじゃん的発想なのね。記憶が正しければ、そういう価値がやっと認められて春日大社が世界遺産に認定されたって何かで読んだ気が。。違ったかな。

話はズレるが、なんで富士山はゴミ山のままなのだろう。

日本のサッカーのサポーター達の、そのマナーのよさには世界が舌をまくというのに。日本人ほど、ホテルを綺麗に使う国民も世界広しといえどいない(と私は確信する)のに。
自然を神さまと奉る国民なのに。無類のきれいずきなのに。
・・・謎である。

テレビでゴミ屋敷に住んでたり、騒音騒ぎをおこしたりする人の顔を見てると、まるで何かにとり憑かれてるようだ。自分の軸をなくしてしまって、よってたかって良からぬものが集まってきちゃったみたいな。

日本人なら条件反射的に拝んでしまう富士山ですらゴミだらけなのって悲しいよね。日本の神さまたちは細かいことはとやかく言わないけど、清浄さだけは譲れないと思うんだけどね。

え?わたしの部屋はって?うーん・・・(@_@;)それはぁねぇ。えーとー。
あ!でもね、最近重曹クリーニングにハマっているのだ。o(^-^)o我が家を世界遺産に!なんちって。

住空間や身体をクリーンに保つって大切なのだよねぇ。自分軸が自ずとはっきりするわけで。
20年に1度と言わず、日々新陳代謝して自分らしくいたいもんだ。

「式年遷宮公式ページ」   www.sengu.info/

「富士山を世界遺産に」 (綺麗な写真とかたのしいです。)   http://www.mtfuji.or.jp/index.html

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2007年5月 4日 (金)

熊野の宇宙人

Imgp1068 熊野には漠然とした憧れがあった。遥か遠い土地、死を彷彿とさせる古く深い森、昔の人たちの祈りを抱きかかえた石、みたいな

しかし熊野は遠く、果たして行ける日がいつかくるのだろうかと思っていたが、行く時というのはひょいっと決まってしまうものだ。そうなると、あとは川の流れに身を任せるようにスムーズに事は運ぶ。

熊野へ向かう途中、何の気なしにある友人にメールを入れた。これから熊野へ向かうのだといった内容だったが、慌てたようにコールバックしてきた。聞けばごく最近、熊野に深い縁があるとある人に言われて、ちょうど熊野に想いをめぐらしていたと言う。そして、きっとあなたは熊野で何かを得るわ、と予言めいたことを付け加えた。

熊野、といっても実に広い。熊野古道だって、全部一つにつなげたらどのくらいになるやら。今回は本宮大社は諦め、速玉大社と那智大社に絞ることにした。花の巌神社なるところにも行ってみたかったが、残念ながら時間的に無理だった。

速玉大社が新宮といわれるのは、もともと神倉神社という古いお宮があるからだ。そしてこの神倉神社でちょっと不思議なことがおこった。後から何枚かの写真を見返してみると、虹色の光がわたしたちを導いているのが見える。(写真の右下に、可愛い朝顔みたいな光が。)

小さな拝殿があるのだが、そこから少し離れたところがどうも気になって近寄ってみると、人を寄せ付けない雰囲気がただよっている。思い切って登っていくと、もうみるからにそこは神域なのだ。

手を合わせていると、どこからかおじさんが現れた。「どうしてここが分かったのかな?」と、まっすぐ透き通るような視線をこちらに向けて話しかけてきた。おじさんの視線はわたしの目をあっさり通り抜け、さらに後頭部も突き抜けている感じなのだ。実に人間っぽくないおじさんである。「なんとなくです。」と答えると、視線を外さずに、「うんそうだね」、と満足そうに頷いて祈りの作法を教えてくれた。そして「ゆっくりなさい」といって、立ち去った。

しばらくして、下りて行くとその宇宙人風のおじさんはにこにこと近寄ってきた。眼力を全開にしつつ『よしよし、しっかりエネルギーを頂いたね。ここの神様は女性の神様だから、普通は女の人を歓迎しないが、今日は鳥居をくぐる時から歓迎していたんだよ。』という。(つまり、わたしが女っぽくないってんでしょー。)そして『エネルギーが切れたらいつでもいらっしゃい。わたしはいつでも待っているからね。』さらにひとことふたこと不思議なことを言ってくれたところで、握手をして別れた。

・・・あのおじさんは、本当にいつ行ってもいてくれそうな気がする。

翌日は古道を3時間(!!)も歩いて、那智大社に向かった。古道は素敵な道だった。竹林を通った時などは、風が竹を揺らして、素晴らしい音を奏でてくれた。

Chikurinn行くわたしたちを土地の方が「古道を歩いて那智大社まで行くのか。それはえらい、えらい」と盛んに褒めてくれた。いや、褒めてくれたと思っていたのだが、実は『えらい』とは要するに『大変』ってことだと後で気が付いて苦笑してしまう。

古道はしかし、色々問題を抱えているようで、世界遺産になったことで林業を生業としている方たちからは相当のブーイングがあるようだ。

何はともあれ、ひたすら歩いてたどり着いた那智大社はありがたみもヒトシオであった。友人の知り合いである権禰宜さんの特別な計らいで正式参拝をして下さったのもありがたかったし、滝はまた素晴らしかった。実は那智の滝の上に二の滝、三の滝なるものがあって、大社の許可をもらえば登っていけるんだそうだ。知らんかった。

花の巌神社にしても、二の滝、三の滝にしても、またひょいっと行けたりするのかな。その時はあの宇宙人のおじさんにも会いたいな。

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2006年11月11日 (土)

果たして八つ墓村は天の川にあるのか?

Imgp0726 京都から電車とバスを乗り継いで、やっとのことで辿り着くちいさな村、天川村。

京都のシェリーバーのおにーさんが「
えー?天川って怖いとこじゃない?八つ墓村ってイメージだなぁ」と言ってはった。以前『天川殺人事件』ってな本&映画が流行ったらしい。・・・おいおい。


まぁね。確かに。閉ざされた村の雰囲気たっぷりである。以前は坪内という界隈は神主や僧侶しか住んでいなかった特殊な地で、今でも外からの人間は土地を買うことはできないと言うから、排他的⇒八つ墓村というのはまんざら的外れな話でもない気もしてくる。
数年前までトンネルすらなかったというから、今よりずっと閉ざされていたのだろう。

そうは言っても、天河大弁財天社は芸事の神さまなので、芸能人が詣でてきたり、海外からのアーティストを招いたりと、実は風通しがよい。村人たちもヨソ人に対してオープン(風に)接してくれる。


毎月一日に夜に村人たちはお宮に集まり、ツキナミ祭を行なうそうだ。わたしたちも何故かちゃっかり参加させていただいてしまった。能舞台の上に並べられた椅子に座らされる。明かりは殆んどない。きゃー。何が始まるのぉーっ。村人の秘儀ーぃ!?わたし見ちゃっていいの?まさに横溝せーしの世界なのかっ?

暗闇の中で笙の音が響き、神職によってあげられる祝詞が宙を舞う。宇宙と会話できそうなくらい深遠な雰囲気なんだけど、世間話をこそこそしている村人もいたりで、なんともいえない空気感。祝詞に続いて般若真経が鳴りモノを手にした村人たちによって合唱される。(天河ではいまでも祝詞と一緒に般若心経を唱えるのだ。)

翌朝あらためて見ると、床が磨き上げられた能舞台に御簾越しに光が射している。わたしたち以外にもよそ者たちがやって来た。昨夜とは全く違う雰囲気の中で、奉納能舞台を観させてもらった。鼓の音、伸びやかな声、光と風と静寂。

うーん。たまらん。

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2006年10月30日 (月)

遥かなる土地にまつわる記憶

Imgp0659 過去に二度長崎に行ったが、今回の旅でもう少しイメージを捉えられただろうか。

長崎は何かといわくつきの土地だ。キリスト教徒への迫害、世界との唯一の接点だった出島。竜馬の足跡。そして原爆。・・・大陸の匂いのする港町。歴史の傷を静かに抱えながら穏やかに語りかける街。

(前にも言ったけど特に日本史はおそろしく)不勉強で、『隠れキリシタンは遠い昔の悲しい出来事でした、おしまい』ってな風に思っていた。現在に連なっているなんて思いもしなかった。息を潜めていたキリシタンたちが、1865年フランス人のために建てられた大浦天主堂で250年7世代ぶり(!!)に神父と感動的に再会するのだ。しかも長崎だけで、なんと数万人も信徒が潜伏していたというんだからオドロキ。何故かくも長い間、ひっそりと信仰が保てたのだろう?ちなみに現在の浦上天主堂は、原爆でにこっぱみじんに破壊された後、20世紀半ばに再建している。ついでに言うと今も長崎や五島にはびっくりするくらいたくさんの教会があるのだ。

聖なる地という磁力は正のエネルギーだけでなく負のエネルギーもひき付けるのかしら。ふと、白人に迫害され惨殺され核実験で被爆したネイティブアメリカンを、それから沖縄を連想した。そういえばエルサレムは世界の聖地でありながら、血塗られた歴史を今もって刻んでいるではないか。

キャロライン・メイス曰く、『許す』ことは、過去の傷をもたらした人びとを許せるほど『自分を愛すること』だ。『自分の傷に固執することは、相手を傷つけ返すことなく自分を傷つけるだけだからだ。』これを読んだときは頭をがつんと殴られた。

・・・とはいえ許すって、過去を執着なく手放すって、そう簡単じゃない。。。。ネイティブアメリカンが、政府からの給付金で働かずにアルコール依存症になっていたり、沖縄の人たちが訴えずに飲み込んでしまうせいか実は自殺率が全国でトップだ、なんて話を聞くとなんともやるせない。

それでも長崎は過去の傷を振りかざすこともしないかわりに、静かに訴えている、そんな印象を受けた。ふいにミケランジェロのピエタのイメージが浮かぶ。磔死したイエスを抱えて哀しむ聖母マリア像―。傷ついた土地をそっと抱えて哀れむマリア。

話は変わるが、九州は長崎にしか行ったことがない。バリで出会ったあるヒーラーが、今までに行った土地は前世に関わりがあると言っていた。真偽のほどはわからないけれど。そういえば、フィレンツェで『君の前世はイタリア人にちがいない』と言われたことがあった。(さすがに仏教徒に改宗した人だった。)単なる口説き文句だったんだろうが、そうかもね~♪なんて思ったっけ。だって、なんとなく一人でいてもすっと馴染むんだもの。

話はどんどん脱線していくが、幼い頃、わたしは古代エジプトに夢中だった。エジプト展に連れていけと親にせがんだり、研究ノートを作ってイッパシの考古学者を気取ったっけ。結局、王家の呪いが怖くて諦めてしまったけど(笑)。だって、本を読んでいると、なんとなく苦しいような気がしてしまうのだ。そして、そんなエジプトにはまだ行けていない。

・・・さらに余談だが、人体の解剖図が大好きで事典の人体の頁がボロボロになるまでうっとり見入っているような、思えばかなりブキミな子供だった。。。前世の記憶か、はたまた子供のファンタジーか。まさかわたし、前世でミイラなぞ作ってないよね・・・?うげげげ。 

日本中、そして世界中旅したら、それだけいろんな場所で生きていたことになるのかはともかく。惹かれるから行くわけで、少なくともその場所に何か引き合う要素が自分の中にあるってことは確かなこと。

さて。明後日は前からとても行ってみたかった天河へついに行くのだー。

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2006年9月28日 (木)

ファンタージェンへのフリーパス

せわしない日常と悠久なるもうひとつの時間。どうにかして折り合いをつけて、二つの時間を自由に行き来をするには、しなやかなバランス感覚が必要よね。事務的な日常に埋もれている人も、現実離れした世界に行ったきりの人もどっちもちょっと、だいぶヤバい。大抵の人は、二つの時間をアンバランスに行き来しているのかな。

『はてしない物語』のラストで、ミヒャエル・エンデがこんなことを書いてた。「ファンタージェンに絶対いけない人間もいる。行けるけれど、そのまま帰ってこれない人間もいる。それからファンタージェンに行ってまた戻って来る人間もいる。そしてそういう人間が世界を健やかにするんだ。」 そういえばエンデの作品に『モモ』というのがある。たしか時間泥棒の話じゃなかったっけ。残念ながら読んだことはないから内容は知らないけど。

自然にはファンタージェンが潜んでいると思う。ちょっと心を澄ませば、木々、草花、風や星のなかに、悠然と流れる時間を感じ取るのは簡単だ。それじゃ、わたしの中にファンタージェンを見つけることはできるかしら。自然の中で過ごす時間をとれず日常に埋没しているときでも?

再び引用になるけれど、養老孟司が言うには、人がどんなに進歩して、人工的な宇宙船に住むようになったとしても『人体』という自然が残される、とか。どんなにコンクリートに囲まれ、コンピューターで管理されるような世界になったとしても、人間の肉体を一皮向けば、そこに異形の大自然を認識するとか。要するに人間も自然の一部なんですよってことね。

武道家の友人曰く、そこに意識を置くことで、限りなくリラックスして力が発揮できる一点が丹田にある。宇宙につながっていく一点だそうだ。静かにしている時に、意識をそこ向けることはできるが、どんなときにもというのが難しい。わたしも弓の先生にも気を丹田に下ろせ、収めなさいとよく言われたっけね。人前で話す機会が多くて、淡々としたモードで済ませられる時はいいけど、ふとアガってしまうことがある。カッと頭にアガってしまった気を、すっと丹田に降ろせればリラックスできるだろうけど、ひとたびアガってしまうとなかなか降ろす余裕がない。大抵の場合、あとから気付くわけで、結局、鍛錬が足りないわけよねー。

有限と無限。動と静。陰と陽。どっちか、じゃなくてどっちもバランスよく頂戴っ、なんつーのはもしかして悟りの境地とかいうやつの一種だったりして??・・・だとしたら、せいぜいもがきながら、少しでも綱渡りできるようバランス感覚を日々鍛えろってことかしらね。

・・・未熟者ばんざーい。

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2006年9月21日 (木)

もうひとつの時間

Imgp0524 早いもので月はほとんど欠けてしまった。先の満月へいたる濃密な数日間はつい昨日のことのようだ。

星野道夫が「もうひとつの時間」について書いている。。。東京の雑踏の中でこの同じ瞬間に、北海道のどこかでヒグマが力強く生きているという不思議さについて。それから友人がアラスカの夜空を見て語る言葉を引用している。「これだけの星を東京で見れたら・・・ふと見上げると手が届きそうなところに宇宙がある。一日の終わりに、どんな奴だって何か考えるだろう。」 ・・・そしてこう結ぶ。『このゆったりと流れるもうひとつの時間を、日常の心の片隅で意識できるかどうかが天と地の差ほど大きいのだ。』

伊勢神宮を案内して下さった若い神職の方が静かに語ってくれた。 『すべてのものには神性が宿っています。木はもちろん空気や石。たとえ神と呼ぶにはあまりにも小さいとしてもそれは確かに存在していて、わたしたち人間ももちろんそうです。でもそうした神性や霊性といったものは、ただ在るだけではただ在るままにすぎず、祈りがあってはじめて尊いものになるのです。』 ・・・森の中でケン・ウィルバーみたいなことを普通に話すのだ。その声に、そして木々や石や風の声にうっとりと耳を傾けた。

千年を超えて今に至るまで、新陳代謝のように遷宮をくりかえす神宮はそれ自体が生きている。もし神宮へ行くことがあれば、内宮正宮へ至る階段をのぼった右手の木々の先に目を凝らしてほしい。きっと小さな石がそっと佇んでいるのに気づくだろう。正宮の場所に元々いらした神さまが、場所を譲ってそこに引越したのだという。なんて奥ゆかしくて瑞々しい感覚なのだろう。

古の人びとは、今は見えにくくなってしまったものを鮮やかに見て、当たり前のようにもうひとつの時間に寄り添って生きていた。今のわたしたちの視覚といえば可視光線を拾うばかりで、それ以外の帯域を知覚しない。

それでも神宮では千五百年前から今日まで、天を照らす太陽神のために朝夕欠かすことなく神饌をたてまつる祭りが行なわれている。もうひとつの時間との橋渡しをし続けてくれている人たちがいると知るとほっとする。

わたし自身も心の片隅や日常の一瞬の中で、もうひとつの時間を抱えていきたいと願うが、なかなかに難しい。

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2006年8月24日 (木)

プルートーとルナを思う

遠い遠い星の話。でもちょっと、心もとない気持ちになってしまった。会議で惑星が忽然と消えるなんて、考えたこともなかったなぁ。惑星なんて、(見たことはないけど)これ以上にないくらい確実なもののように思えたのに、実はひどく曖昧だったなんて。。。それでもプルートーは死んだわけじゃない。それに冥界の王が遥か彼方の闇の中で息を潜めて存在しててくれなきゃ味気ないもの。

そういえば、最近、月や火星や金星の土地を売ってたりするけど、それって一体誰が売ってるわけ?すっごく不思議ー。誰のモンだってんだ?んー、まあ、そんなこと言っちゃうと、地球の土地だってそうなんだけどね。人間が勝手に決めたものが真実みたいに思い込んでることって実はたくさんあるんだろうなぁ。

ところで。今日は新月。

・・・新月に願い事をすると叶うとか。目標を立てるのにはもってこいの日。新しいことをはじめたり、悪い習慣を手放すのにも(禁煙とか)。ヨーロッパでは新月に挙式するしきたりもあるらしい。(会議で冥王星の決断をしたのが今日なのも意味があったりして?)

なんでも、上弦から満月をピークに、生物の持つ吸収力や摂取力が高まって、逆に下弦から新月をピークに発散する力が強くなるそうだ。

新月は解毒や洗浄、発散、発汗といった働きのピークになるから毒素を排出するのに適しているし、太りにくかったりもする。新月に伐採した木は強くて、ストラディバリウスや法隆寺にも使われているとか。毒素が抜けて丈夫なのかしら。

満月になると吸収や摂取のような力がピークなので、からだをつくったり丈夫にするのには適しているけれど、同時にむくみやかったり太りやすいのだそうだ。( ̄□ ̄;)!!つまり、月は人間の行動はもちろん、ダイエットやデトックスにまで影響を与えているっていうことらしい。

月が自然や人間に及ぼす影響っていうのはちょっと怪しげな印象もあるけど、新月の時は月と太陽が一緒に地球を一方方向に引っ張っるのに、満月になると綱引きするのだもの、そりゃぁ間にいるわたし達に影響がないわけない。

・・・月も冥王星も、意識しようがしまいが、「惑星」だろうがなかろうが、お構いなしに運行しながら、わたし達にこっそりと影響を与え続けていると想像するとちょっと愉快な気分になる。

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2006年8月22日 (火)

出雲と伊勢と熊野の関係

わたしの地理オンチっぷりは、やっぱり大したものだ。

来月、会議で岐阜の下呂温泉へ行くのだが、そこまで行くのなら伊勢まで足をのばせないかしらと思いついた。無知のなせる業とはいえ、そこまではよかったのだ。関西出身の所長仲間に尋ねてみると、いいじゃない行こうよと本人もノリノリになってくれたし、気付けば総勢6人の湯煙?女旅ってことになっていた。(事件でも起こらなければよいが・・・!?) おお。我ながらいい企画じゃないか。

しかもシエスタにはコスミックユーザーさんで伊勢神宮の巫女さんをしていた子がいるのだ!お願いすると快くお参りのアレンジを請け負ってくれたのだ。むふふ。素敵だ。素敵すぎる!

オンチをさらしたのは数日前のこと。例の関西系所長が、さりげなく、『熊野も近いからねー』と言うではないか。…?れれれ?ちょっと待てよ。それっておかしくないか?だって熊野は紀伊半島ってのはわたしだって知ってるぞ。そんでもって伊勢は日本海沿いぢゃろう?

言わなきゃいいのに、ついアホ面で口に出してしまった。関西系所長はしばし固まったものの、我に返るとこう言った。「・・・やっぱりこっちの人は、西日本は分かんないよね、わたしもこっちは分からなかったもんなぁ」

・・・これは明らかにわたしのフォローに入っている。うそっっ。伊勢も紀伊半島なの?(爆っ)知らない、知らなかったぞ。

『だぁって、伊勢ってば、出雲に近いイメージだったんだよねー、あははーっ』ええい。ここは笑え。笑うしかない。

まぁ、なにはともあれ、伊勢にはきっと素敵な風が吹いて待っていてくれるはずさっ。。

そうそう、忘れてならないのは、今の時期しかない赤福入りのかき氷だ。ぜひとも食べねば!!今回宿泊予定のエクシブは鳥羽にある。(『孫』の鳥羽一郎の出身地さっ)一部屋12000円。6人で泊まるから頭割りなんと2000円!!!おそるべし。ふふふ。浮いた分で伊勢海老だとか、アワビだとか、たらふく食ってやるぜよ。待ってろ、鳥羽~。

熊野は一人で行くことになるだろうけど、山深いひんやりとした空気にずっぽり入り込めるのは今から楽しみ。交通の便は悪そうだけど・・・そこがよいのだよね、うん。

・・・。でも少しはお勉強しておこうかなーっと。。

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2006年8月16日 (水)

竜馬と過した夏

そういえば、『竜馬がゆく』にはまったのってちょうど去年の今ごろだったかな。その時ちょっぴり江戸と戦争と今がつながった気がしたっけ。 

日本史はずっと苦手だった。漢字を覚えられなかった上に先生は最悪だったし、高1で捨てた。(ちなみに古文で有名な高校だったが、それも早々に放棄したっけ) それに引き換え、世界史の面白いかったこと!壮大な大陸を股にかけたアレキサンダー大王。(うっとり~)キリスト教の強大な権力に帝国。ルネッサンスに革命。なんていかがわしくてロマンティック! 

だからなのか、世界中いろんな所に行ったけど、日本の地理はカラキシ弱い。例えば「何とか地方」っていうのが何処なのかちぃとも分からない。 えーと、ほら、甲信越とか信州とか、ああいうの。ちんぷんかんぷん。・・・F1を見て回った時だって、ベルギーやアメリカ、ブラジルまで行ってるのに、なぜか鈴鹿には行かなかったっけ。

それでもここ何年か、ようやく日本に興味が湧いてきた。きっかけ?何だっけ。思い出せない。座禅?あぁ。弓かな。神社という空間も好きだし。それから某所長さんに池波正太郎なぞ薦められて(・・・読破したら蕎麦おごってくれるというのについ乗せられて)、そして司馬遼太郎の竜馬にたどり着いたのだ。

祖父や祖母、父や母は戦争に傷ついて過去を封印してしまったお陰で、わたしにとって戦争など無関係だとずっと思ってきた。(戦争語る=『右翼だぜよ』と漠然と思ってたもんね。なんちゅー短絡思考。) でも実は彼らの傷はわたしにも密かに受け継がれているんだろうと思う。戦争で切り取られた自分の国やルーツを見ることなく、世界や現在ばかり見てきたんだもの。

そろそろ歴史やルーツと向き合わないと、根っこが生えないのかなーと思うようになったのは、傷が少し癒えたせいかもしれないし年のせいかも? まぁ、まだまだものを知らなすぎるから何も語れないけれど、とりあえず最近は、日本に生まれて良かったなぁと思えている自分が気に入ってったりする。 

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